どうもこんにちは、動物ライターのみかづき(@trickwolves)です。
先日「ニホンオオカミの最後 狼酒・狼狩り・狼祭りの発見」という本を読み、動物を保護することは”言うは易く行うは難し”であることを再認識したため、今現状の考えを記事として残しておきます。
多くの動物を絶滅させた人間を嫌いになった思春期の話
私は学生の頃、図書館にあった「絶滅動物誌」という本を読んで多くの動物が人間の活動によって絶滅に追いやられたこと、そして絶滅しようとしていることを知りました。
動物たちが絶滅した理由はさまざまで、
- 肉が美味しかったから(ステラーカイギュウ、クァッガ、ドードーなど)
- 毛皮や羽根などに価値があったから(ブルーバック、ミイロコンゴウインコなど)
- 人や家畜を害する邪魔な存在だったから(フクロオオカミ、エゾオオカミなど)
などがあるものの、その多くは人間のある種身勝手によるものでした。
物心ついた時から動物が好きだった私はこれらの事実を知り、強い衝撃を受けました。さらにその時思春期であり、あまり家庭環境が良くなかった私は愚かで強欲な人間に対して強い怒りや憤りを覚えて、文字通り人間のことが死ぬほど嫌いになったのでした。
まだ未成年だったこともあり、当時の私は頭の中で割と過激なことを考えていました。そう、「要は人間の活動で動物たちが滅んでいくのだから、人間がいなくなってしまえばいい」と過激かつ安直なことを考えていたのです。
オオカミは人間にとって、益獣であり害獣である
当時からトラやオオカミといった大型の肉食動物に強い興味を持っていた私には、なぜあれほど美しい彼らを私利私欲のために殺すのか、全く理解できませんでした。
まして日本人は自国にニホンオオカミとエゾオオカミという2種のオオカミが生息していたにも関わらず、2種とも明治時代に絶滅させているのです。その事実がまた当時の私の心を蝕み、人間嫌いに拍車をかけていたように思います。
今回私が読んだ「ニホンオオカミの最後 狼酒・狼狩り・狼祭りの発見」という書籍には、作者の遠藤公男さんがニホンオオカミの足跡を探して東北地方をひたすらに練り歩く様子が1つ1つリアルに記されています。
中にはかつて日本人がニホンオオカミを敬い恐れながらも共に生きていたこと、ニホンオオカミに関するさまざまな文化があったことなど、文庫本一冊から得られるものとは思えない半端ではない情報量が詰め込まれているのですが…
- 江戸時代には主に子どもを中心にオオカミに襲われ、食われた人がいた
- 明治時代には牛馬がオオカミに食い殺され、襲われてケガをした人もいた
といった、ある種衝撃的な事実も記されています。江戸時代にニホンオオカミに殺された人については名前や年齢、時には”その時”の状況、状態も書かれていて、正直ゾッとしました。下記に一部だけ、本文を引用させて頂きます。
元禄十一年八月十七日。御明神村で昼の十時過ぎから夜の八時までに、狼に食われたものの報告が代官からあった。即死 万蔵(九歳)いぬ(五歳)ひめ(六歳)深手 屋せ(五歳)(-中略-)深手の四人は喉笛を食われた。
(「ニホンオオカミの最後 狼酒・狼狩り・狼祭りの発見」山と渓谷社 P106より引用)
この文章を見ただけで、正直ゾッとしませんか。
村で元気よく遊んでいた子どもたちがオオカミに襲われ喉笛を噛み切られて、即死あるいは深手を負う…江戸時代にはそんな日常がすぐ側にあったのです。江戸時代の医療では深手を負った子どもたちも助からなかったのではないだろうか…そう考えると、余計に胸が痛みます。
ニホンオオカミは畑を荒らすイノシシやシカを追い払い、食べてくれる益獣でした。しかし同時に人間や家畜を直接害する、恐ろしい害獣でもあったのです。
現地の人にとって動物は保護より忌避するものなのかも
昔の私はなぜ人間はあれほど美しいトラやオオカミを殺すのか、そう思っていました。しかしさまざまな書籍を読み、知識を蓄えていく中で別の見方が出来るようになったのです。
自分の生活圏にトラやオオカミが生息していたと仮定して
- その動物たちが街や村に入り込んで来たら?
- 大事に育てた家畜やペットを目の前で殺されたら?
- 自分の家族や友人が目の前で彼らに殺されたら…?
そう考えてみれば、毛皮や骨などの金銭目的以外で人間が彼らを殺す理由は火を見るよりも明らかでした。自分や大事な人や財産を守るためならそりゃあ動物を殺すよな、とある種当然のことがようやく腑に落ちたのです。
世界には今も絶滅しそうな動物たちがたくさんいて、彼らが絶滅しそうになっている理由の大部分が人間の活動によるものです。
中でもトラは絶滅の恐れが高く、かつて10万頭生息していたものが、現在では4500頭程度しかいないと考えられています。トラの場合は毛皮や骨などを狙った密猟や生息地の減少が大きな脅威ですが、トラが人を襲ったためにその報復として殺されることもあります。
参考:インドでまたトラ殺し、住民襲ったトラを村人らがたたき殺す
トラの生息地から遠く離れた日本に住んでいるトラ好きの方はこのニュースを見て、「なんてひどいことを!」と思うかもしれません。ですが自分の住む村の周辺にトラがいて、村の仲間が13人もそのトラに殺されたら…絶滅寸前のトラだから我慢しよう、と思えるでしょうか。私は動物の中でトップクラスにトラが好きですが、その村に住んでいたらそうは思えないような気がしています。
↑の写真はズーラシアを訪問し、「動物園という絶対に安全が担保された場所」で撮影したものです。絶対に安全だという状況が担保されている状態で見るからこそトラは美しい、格好良いと思える1枚ですが、これが柵も檻も何もない状態で見た景色だったらどう感じるでしょうか。多分多くの人が「あ、こりゃ死んだわ」と思うのではないでしょうか。
動物の保護は「言うは易く行うは難し」である
絶滅寸前の動物を保護しよう、というのは比較的よく聞く文言です。しかし今回改めて動物保護について考えた結果、
- その動物の生息地に住んでいる人が感じることこそがリアルであること
- 生息地から遠く離れた場所に住む人間が出来ることなんて本当にたかが知れていること
を改めて理解したように感じています。
「動物を殺すな」と口にしたり、文字にしたりすることは簡単です。しかしいざ自分がその立場に置かれても動物を殺すなと言えるのか、動物を殺さないでいられるのか…そう問われて「絶対にできる」という人は多くないのではないでしょうか。
動物を保護したい、という気持ちはとても素敵で美しいものだと思います。ただ動物を保護するためには動物たちのことを知るのはもちろん、その動物の近くに住んでいる人たちの視点に立って考えてみることも忘れないようにしたいものですね。